Sun Catcher

結局は、最期の瞬間に自分を褒められるかどうか

三人で練習に出かけるのもあとわずか

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主人が幼稚園の体育指導員ということで、先生と園児としての時間を過ごし、ここ数年は、ミニバスチームのコーチと選手としての時間も過ごし、親子としてだけでない、とても濃密な時間を過ごしている、私の愛すべき男子たち。

 

共通の幼稚園、共通のミニバスチームにいた時間が私たち家族に与えたものは、抱えきれないほどだ。

夫婦間でも、親子間でも会話が増え、その会話の中で、夫の考えを知り、息子たちの成長を知った。

 

三人でこうして練習や試合に向かう日々も、残り僅かになってきたけれど、この風景は確実に彼らの中に刻まれていくだろう。

 

長男、次男の関係性もまた、兄弟としてだけではなく、同じチームの先輩後輩メンバーとして豊かな時間を過ごせたことだろう。

二週間前の卒業大会で、同じチームでプレイすることは終わってしまったけれど、今日は、新人チームが熱い試合を見せてくれ、新しく始まる時間の期待心が生まれ、二週間前に涙した二人の時間も、動き出したようだ。

 

環境は変わるけれど、家族時間は継続していくのだから、これからは、お互いが見た風景や経験したことを持ち寄ることで、会話は増えていくだろう。

それはそれで、楽しみだ。

 

 

 

 

 

 

次はどこに行けるだろう

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毎年恒例湘南トリップの為に、三月に入ると同時に常宿を予約していたけれど、

今年はもう家族で数日間旅行に出かけることは難しくなってきて、予約はなし。

 

アウトリガーカヌーをしたり、湘南の先輩に会ったり、海で散々遊んだり、江ノ電に乗ってお寺巡りをしたり、海の家で大好きなKeisonのライブをみたり、花火を見たり、子ども達の成長に伴い様々なことを体験してきた。

 

写真は森戸海岸のOasisで開催の、Keisonライブの前のワンショット(2014)。

富士山と江の島が綺麗に見えて、神秘的だったな。

 

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昨年は鎌倉にも一泊したことで、長男の合格祈願や、早朝参拝、ぼんぼり祭りなど、三回も鶴岡八幡宮にでかけた。

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日常から離れたトリップは、いつも家族と過ごす時間の楽しさを再確認できるから、家族旅行時間捻出は難しくなるけれど、空いた時間に突発的にでも家族で出かける反射神経だけは持ち続けていたいと思う。

 

 

 

 

 

Ecriture

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2014年は高橋のブラック。

2015年は、NOLTYのEcriシリーズのネイビー。

 

NOLTY(ノルティ)とは

New style(新しいスタイル)

Original (そしてたったひとつの存在で)

Life Time(ずっと毎日)

Your will(あなたの想いを叶えたい)

という想いが込められた、使う人に寄り添うブランドだそう。

 

その中のEcriシリーズのEcri(エクリ)とは、

フランス語 ”Ecriture(エクリチュール)”「書く」と言う意味の由来。

 

育児の傍ら執筆を続けてきた私にとって、2015年を彩る一冊にしたいという

想いで購入した手帳には、元旦より欠かさず日記を記してきた。

 

私にとって書くことは、心をリセットするために必要なこと。

ブログも初めたことで、よりその時間が増えていると感じている。

 

そして、それをコツコツと続けることが、私が目指すどこかへ繋がるのだと信じて、今日もパチパチとキーボードを打つ。

 

今年の年末に新しい手帳を購入する時、私はいったい何を想い、何に尽力しているのだろう。

楽しみだな。

 

 

 

 

 

明日が楽しみ

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今日はオフ日。

久しぶりに友人とランチ。

長男同士の繋がりで、母になってから友人になった彼女とは、もう12年ほどおつきあいが続いている。

彼女との会話を通して、私はいつも自分の在りようを確かめてきたように思う。

特にこの一年、お互い受験生の子を持つ親として並走してきたことは、

長男にとっても、私にとっても大きな励みになった。

 

彼女との出会いは、長男が運んできた産物。

いつも幸せでいて欲しいと思う、大切な友人だ。

 

そんな彼女との時間の合間に、職場の二歳児クラスの子どもたちのことを思う。

怪我をした子がいないといいな……。

今日は、最期まで給食を食べてるのは誰だろう……。

もうそろそろ昼寝だな……。

会いたいな……。

 

三月に退職を決めているのに、もうすでに情だけは育っていて、こうして離れた日に、不意に別れへの寂しさが顔を出す。

 

干支が同じで三回り年下の子ども達とは、六か月と短い付き合いでしかないけれど、私の中では、友人同様、幸せでいて欲しいと願う対象になっている。

 

ずっと、大き怪我をしませんように。

ずっと、大きな事件に合いませんように。

できる事なら、素直で、優しく、健康なまま育ちますように。

 

傍にいて関わることはできなくなるけれど、本当にまっすぐな気持ちでそう想う。

それはきっと、クラスの子たちが私を救ってくれた時期があることで生まれた感謝が育てた想いであり、どんなに小さくとも、私を創ってくれている大切な人たちだと分かるからだ。

 

幸せでありますように、と願う人が増えていくことは、なんて素敵なことなのだろう

明日子ども達に会ったら、その想いが伝わるような笑顔で「おはよう」を言おう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雛あられ

https://instagram.com/p/lD0qwHTCl9/雛飾り。

上は、先輩から娘誕生時に頂いたもの。

下は、夫婦で選んで娘にプレゼントしたもの。

 

京雛と関東雛の男雛と女雛の座り位置の違いには、諸説由来があるらしいけれど、

どちらも気に入っているからあまり深く考えずに、家ではもう七年もこのように飾っている。

 

一年振りに飾る時は、「お久しぶりです。元気でしたか?」と級友に会ったような親しみを込めた挨拶をし、三日の夜には、私たちが食すものを飾って一緒に祝い、また来年もこの時間を楽しめるよう、娘をお守りください、と願うのだ。

 

今日は職場の保育園でも雛祭り会があり、その中で雛あられの色の説明を聞いた。

桃色は春の花を示し、緑は夏の草の色、黄色は秋の紅葉の色で、白は雪の色と一年を通して我が子が元気でありますように、という願いが込められているそう。

 

フムフムと話を聞きながら、四十を前にしても知らないことが多いものだな~と感じた。

知らないことが多いことを恥ずかしいと感じる人もいると思うけれど、私はまだまだ色々なことを知ることができるのだ!!と嬉しくなる。

情報過多なこの時代において、自分が残りの人生の中で掴み取る知識なんてたかが知れてるけど、可能な限り、身になるものをキャッチしていけたらと思う。

 

「桃色は春の花の色。緑は夏の草の色。黄色は秋の紅葉の色で、白は雪の色。

一年を通して貴女が元気でありますように、っていう願いが込められてるんだって」

と話しながら雛あられを食べる時間が増えたことは、来年以降も、家族で祝う雛祭りの中にほんのりと温かいエッセンスを加えてくれるだろう。

 

身になるもの、ひとつキャッチ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝のバトル

 

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三人子どもがいれば、毎朝の忙しい時間帯に、かなりの頻度で小さなトラブルが発生する。

私はその痴話げんかをスルーしろと自分に言い聞かせて、ダッシュで家事をこなすことに意識を集中するが、スルーできる日とできない日があり、時に一日の始まりの大切な朝を台無しにしてしまうこともある。

 

怒りと諦めの混ざる感情と共に子どもを送り出して仕事に向かう間、こんな感情のまま子どもたちと会えなくなったら本当に最悪だな……と、怒りを鎮めきれなかった自分の未熟さに嘆息する。

そして、仕事先の保育園について部屋に入り、可愛いKIDSに挨拶をすると、意識は一瞬でKIDSへと移行していくのだけれど、KIDSが昼寝に入る前に小さな体をトントンとたたく間に、また朝の子ども達との時間が蘇り、早く会いたいな……と思ったりするのだ。

 

私に小言を言われながら小学校へ向かう三人も、どこかで意識変換をおこして、私との時間を忘れるのだろう。

変換までの時間が長い日もあれば、短い日もあるのだろう。

けれど時折、帰宅した私を迎えてすぐ、「ママ、朝はごめんね」と言ってくる子どもに会うと、どこまで引きずってたのだろう?謝るまでの経過の中で、色々なことを考えたのだろうか?と思案し、人との(親も含め)関わりの中で自分が起こした行いを思いかえし、その後、何をすべきかを考えたのだな……という想像に触れ、彼らへの愛しさが増していくのだ。

 

長男は四月より電車通学が始まるため、次男、長女が起きてくる時間には家を出るようになるから、もしかしたら、この朝のバトルを懐かしく思いかえす日は、そう遠くないのでは?と思えてくる。

 

いつも笑顔で子どもを送り出す穏やかな家庭もあるだろうけれど、本当は私の理想もそうなのだけれど、感情の起伏に対応する力は、こんな何気ない日常の中に勃発する家族の小さな、時に大きなバトルから育っていくのかもしれない。

 

と、自分を正当化してみる。

 

 

 

 

 

 

 

終わりの集結する月

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3月スタート。

終わりの集結する月のはじまり。

長男が、六年間通った小学校の卒業を迎え、三年生より始めたミニバスチームも卒業する。

そして私は、9月より務めた保育園を退職する(短かっ!、でも、短くても濃密な時間の中を生きたから良いのである!!!)

 

終わりがあり、始まりがある。

そこには僅かな不安と、それを勝る期待感とで、春に咲く花々のごとく、

新しい命の誕生に疼くエネルギーが身体中で駆け巡っているような感じだ。

 

変化に怯えてなのか何なのか「今年は大変だね」「大変になるでしょう」

と容易に声を掛けてくる人がいるが、私はその度に???と思う。

大変かどうかは、その時間を生きた人が感じるものであると思う私は、その人が簡単にこれからの私たちの時間を予測して言葉にすることに疑問が生まれるのだ。

 

高城剛さんの著書『時代を生きる力』の中で、高城さんは「大変とは、大きな変化の生まれる時期」と言うことを書かれていて、深く感銘を受けた。

 

「大きな変化が生まれるなら、そりゃ大変でしょうよ」というスタンスで、

「でも、大きな変化の先には、これまでの自分とはまた別の自分が生まれるのだ」

という期待心を持って挑むことが、四月からのスタートの中で、長男と私が持つべき大切な指針だと思っている。

 

だからなおさら、私は適当な声掛けの一つとして「大変でしょう」と言うことは避けたいと思う。

同じ声掛けでも、「新しいことが始まるんだね、楽しみだね」と言う言葉を貰えたら、自分も嬉しいと感じるからだ。

 

私はここにきて、ほんの少し知り始めている。

「大変」「大変」と騒いでいる人ほど不満の多い人生を生きているのでは?ということを。

そして、忙しく、自分の心と体を使って動いている人ほど、「大変」と口にしないのでは?ということを。